「徒然」カテゴリーアーカイブ

日本語未解読?

時々古代の研究をしている人たちが、この文字はまだ解読できていません。とか、この部分はこういわれて来たけれど、近年ではこういう事だと解釈されているとか。研究が進むにつれてはっきり解読できたり、今まで思われて来た事が覆されたり・・・と、そんな事が起こる訳ですが、つい最近、もしかして日本語もそんなレベルなのではないか?なんて思ってしまったりして。

今、何かと勢いづいて、何かとやらかしている日本政府ですが、集団的自衛権を憲法はそのままで解釈で行使できるようにする!なんて議論が、当たり前のように論議されてます。

解釈だけ? と驚いてしまうのは、私だけなんでしょうかね?

戦後の日本の根幹を揺るがす一大事だと思うのですけど。

解釈だけで180度変わってしまう憲法って、文字にして残している意味があるの?
良く、言った!言わない!で言い合いになりますが、こっちの方がましに見える。だって、証拠が無いのだから、勘違いしてしまうのは良くある事だし。

集団的自衛権がいいとか悪いの話ではなくて、一つの文章が解釈に寄って180度意味が変わってしまっては、記録として残している意味がないじゃないの! という事です。
まぁ、ねえ、日本の憲法9条をまともに読めば、自衛隊は決して日本から離れては行けない、なんて風に読める訳ですが、日本は今までも憲法を変えずに自衛隊を海外に派遣してきましたからね〜。
記録に残されていて、しかも今も生きている文章をないがしろにするような事ってどうなの?

訃報

訃報は突然やってくる。長く会っていない人だと、驚きはするが、なかなか実感がなくて・・。
でも、その人を思い、共に生きた時間を思い返すと、懐かしさと共に悲しみが込み上げる。

そうして、会わなくなって長い時間が経った事を実感する。思い返して懐かしい、きれいなままの思い出は色あせず、それでも、決して還ってこない時間だったのだと言う事も実感する

多くの事を教わったのに、何も恩返しができなかったと、心残りも。

書けない漢字の行方

一時期、パソコンの普及率が日本は低いと言われていたけれど、今はどうなんでしょうね?で。パソコンやスマホが普及して起こるのが、やはり難しい漢字がどうなるのか・・という問題。
「ばら」と打てば、「薔薇」と変換してくれるけど、この字を真似して書こうとは思わない。そう! 最近では、漢字を調べるのもパソコンだったりスマホだったり。画数の多い漢字は、結構どんな字が使われているのかはっきり分からなかったりして(*^_^*)
だから、やはり、書く時は「バラ」
と片仮名になるでしょう。私の場合は。”私”は、一般的な人間なのっで、私がそうなるってことは、他の人たちもそうなるって事だと思われます。

でも!!!変換させれば勝手に出てきてくれる漢字は、もしかすると結構ずっと、漢字変換ソフトを作る人たちが削らなければ残るのかも・・・なんて思ったりもして。ただ、この場合、パソコン漢字見たいな事になるような気もするけれど。

言葉と文字

言葉があれば必然と文字が生まれるのだろう・・・なんて勝手に思っていたけど、決してそんな事はない。インドに残されているラーマヤナやマハーバーラタは、もともと口承で伝えられていた幾つかの物語を後にサンスクリット語で編纂したといものだし、日本の古事記も恐らく同じような事だと思われる。
反対に、文字を持たないと思われていた民族の飾りだと思われていた模様が後に文字だったなんて場合もある。

日本では、漢字以前の文字はなかったと言うのが一般的な意見ではあるけれど、実際はどうなんだろう? 言葉を話せば、記録として残したいと思うのが普通のような気もするし。

個人的に思うのだけれど、中国から伝わった漢字が、やたらと日本人にあっていたんではないか? ってこと。漢字、平仮名、片仮名の三種類を使いこなす民族なんて、世界を探しても日本しかない。さらに凄いのは、義務教育だとは言え、三種類の文字を殆どの日本人が使いこなしている事。

だから、インドヨーロッパ語族が世界のほとんどを占めている現在、日本人は外国語を話すのが下手!なんて言わないで欲しい☆

インドヨーロッパ語族の分布

日本に漢字が入ってこなかったら、日本は今頃どうなってたのかな? 漢字を発明してくれた中国に感謝!
でも、もし、日本に漢字以前の文字があるなら見てみたい。

お彼岸

お彼岸と言えば先祖を供養する事を考えます。
でも元々お彼岸と言うのは、今現在生きている此の岸から修行により煩悩に例えられる川を渡った彼方の岸を指しているようです。
春分は、東から太陽が昇り、西に沈む、その西の彼方に極楽浄土があると考えられていて、此の生が終わった後、極楽浄土へ生まれ変われるようにと願ったと考えられています。

そんな事から、現在は、極楽浄土にいるはずの先祖を思い、供養する行事になったようです

いつの時代も、死んだ後の事に思いを馳せます。前世や来世が本当にあれば、人生に対する考え方もきっと大きく違ってくるのでしょうね。

忙殺

ここのところ忙殺されて、やるべきことも出来なかった。
ふと気付くと日数が経っていて。
って言っても、精神的に・・・・という感じ。
何と無く焦ってしまって落ち着かず、やるべきことも忘れてるってやつ。
だから、何か忘れているみたい・・なんた感じもあったりして。

精神的に余裕がないってことなんでしょうね。仕事で時間が無かったのは事実にしても、精神的な事の方が大きい場合は「忙殺」っていうのとは違うか?

まあ、考えてみても、とにかくやるべき事をしなかった事は事実だから。
どんな時も、精神的余裕を持つように心がける事は大切ですね。

311

無情にも時間は過ぎていく物だと実感するのは、今日のような日なのかもしれない。失った物が多すぎて、振り返るだけの余裕もなくて。

確かに、それは確実に三年と言う時間が過ぎた。波に飲み込まれていく街を見ていたのは三年前。それは、私にとっては遠い東北の出来事。それでも、テレビに映し出される津波の威力に言葉をなくし、呆然と見ていたのは、三年前。

あれから三年が経ち、私はどう変わっただろう。

毎日、充実した日がちゃんと送れているだろうか?

毎日、後悔の無い時間が送れているだろうか?

直接、東北の復興に何かが出来る訳ではないのだけれど、無数の無くしてしまったモノを考えた時に、自分の生き様を見つめ直す事は、大切なのだと思う。

詩とメロディー

詩は、それだけで力のあるもの

何かがあった時

何かが起こった時

もしかすると、何も起こらなかった時

心の中に渦巻く思いが、ことばとなってこぼれ出る

その流れが、詩となるんでしょう。

で、その詩にメロディーをつけると歌になる。

聞き方なのか、歌のもつ力なのか、音楽がずっと心に残る場合と、詩が心に残る場合がある。どちらがいいとかって分からないけど、同じ歌詞でアレンジが違うと、また違った風景が見えてくる。これって、凄い事なんだと思える。ことばは同じなのに、情景が変わって見えるのだから。

読み手の環境が変わると、違った風景が見える事があるけれど、それとは違う。楽器の持つ力だとも言えるかもしれない。同じメロディーをピアノにするか、バイオリンにするかでイメージが違うし。最近はバンドにサックスを入れる場合が多くなったけれど、サックスは私に取っては夕方のイメージ。物悲しい雰囲気が漂う。ケニー・Gのイメージが強すぎるかな・・・。

音楽と舞踊が元々は同じ一つのモノだったように、音楽と詩は切っても切れない間柄なんでしょうね。

自分の性格と付き合う

「自分の性格だから、付き合っていかないといけない」

これ、なかなか深い言葉です。
誰かと合わないからとか、それだと皆と違うからとら、集団行動的ではないからなどと言われて、性格を直しなさいとか、性格を変えないと、なんて良く言われるけれど、そうじゃないって思える言葉。

自分の持っている性格だから、人から反感を買ったりしたとしても、それが自分なのだから受け入れて、その性格と付き合い、他の人とも付き合う。折り合わない部分があろうと、それが自分。折り合わない部分はそのままでも、別の部分で折り合う部分を見つければいい。

わがままじゃいけないけど、受け入れてもらえないからと、自分の性格を嫌いになるのではなく、ちゃんと自分で受け入れてあげる事。まず、自分が自分の性格を受け入れてあげなければ、きっと誰も受け入れてくれない。

そして、真っ直ぐであれば、受け入れてもらえなくても、認めてもらえるかもしれない・・・と思う。

憂:国土強靭化計画

国土強靱化計画は、田中化角栄の日本列島大改造を思い出す。

最近、以前中止となっていた計画が再び動き出すらしい。中止の中止って事ですかね?

橋を作ったり・・・という計画らしいけど、日本は現在少子化傾向が強まり、人口だって減少傾向にある。2050年代には、日本の人口は1億を割ってしまう予想。

今でさえ、本州から四国に渡した三本の橋は赤字。橋を一本作るのに、1000億だ、1兆だなんて言っているけど、それを払うのはいったい誰なんでしょうね?

都会の若者で、車の免許を取らない人も増えてきた。田舎の人間に車は必需品だけど、そんなに橋や道路を作って、将来、借金とそれだけが残って、車は全然通っていない・・・・なんて事にならないように、祈るばかり。