「漢字の意味」カテゴリーアーカイブ

「早い」と「速い」

書こうとして、ふと「どっち?」と思う字に「早い」と「速い」があります。

「早い」と言う字は、上が「日」で下が「十」と言う字です。一説では、基本は「旦」と同じようで、太陽が昇る様子ですが、「旦」が地平線から太陽が昇る様子なのに対して、「早」はなぜか泉のある草原から太陽が昇る様子なのだそうです。
別の説では、「日」と人の頭を現す「甲」から「朝はやい」と言う意味の「早」になったとのこと。私に判断はできませんが、どちらにせよ、「早」と言う字は、例えば「早朝」のように時間的に早い場合に使います。

もう一つの「速い」と言う字ですが、まず「しんにょう」は「辵」が変形したもので、上の部分が「ぎょうにんべん」で下の部分が「足」です。足で使う動作を指しており、歩くことや行くことを現します。「束」ですが、時間を束ねるように縮めることから「速」が生まれ、スピードの速さに使います。

「聞く」と「聴く」

話しているときは問題なくても、いざ書こうとすると、どの字を使うのが正しいんだろうと迷う事が良くあります。「聞く」と「聴く」もその一つ。

まず「聞く」の方は、「音を耳で感じ取る。自然に耳に入ってくる」。「聴く」の方は、「聞こうとして聞く。注意してよく聞く。聞こえるものの内容を理解しようとする」と言った違いがあり、「聞く」は受動的。「聴く」は能動的という漢字でしょうか?

ただ、漢字を見ていると、どちらにも「耳」という字が入っているのですが、雰囲気が違う。で、漢字を調べてみました。

まずは「聞」と言う字ですが、門の中に耳と言う字です。これは、門に耳を当てて中の様子を伺っている様子なのだそうで。

ま「聴」と言う字ですが、「耳」に「十四」と「心」です。「聽」と言う字が元々の字で、左側が「耳」の下に「王」。この左側の部分は、人が天に向かって耳を傾けている様子を表した文字で、神の声を聞いていると思われます。
右側が「十」「四」「一」が縦に並んでいるのですが、この部分は「直」に当たると思われます。その下が「心」。
「直」に関しては、様々な意見がありますが、現在使われている「直す」や「真っ直ぐ」「素直」などに通じる意見です。

「直」に関しては、說文解字第十二篇下にこのような文があります。「正見也。左傳曰。正直爲正。正曲爲直。其引申之義也。見之審則必能矯其枉。故曰正曲爲直。从十目乚。謂以十目視乚。乚者無所逃也。三字會意。除力切。一部。今隷作直。」
最初の文字は「正しく見るなり」ですね。途中「十の目でLを見る」という文字もあります。
神の声を真っ直ぐに聞くといった意味があったのでしょうね★

「きく」には、もう一つ「訊く」という字もありますが、こちらは「問いただす」という意味があります。「逃げ口上を考えるひまを与えないように、口早にといただす。広く、罪をせめとう。罪をとがめたずねる。」などなど。
この字は、「尋ねる」と違いを考えた方が良さそうです。

自分を現す人称代名詞は、日本語の場合、やたらと多いです。特に男性が使う言葉が多いような気がします。フォーマルな場面では「わたし」や「わたくし」という言葉も使いますが、他にも「俺」「僕」「小生」「吾輩」「我」「拙者」「吾輩」「朕」「それがし」などなどなど。

今の時代だと、「拙者」とか「それがし」なんて言葉は時代劇でしか聞く事はなく、男性が多く使うのが「僕」と「俺」。この二つも、どちらかと言えば、砕けた感じがするのは「俺」。使う人によっても違いますが。

イメージ的にちょっと澄ました感じで使われている「僕」ですが、この字って「しもべ」ですよね。今は誰もそんなつもりで言ってないですが、「僕」は「小生」と同じ謙称。相手に対してへりくだった言い方なので、「あなたのしもべ」みたいな意味そのものってことになります。
スサノオノミコトも読み方は違っても「僕」と使っていたみたいですから、随分古くから使われている言葉です。

ただ、最近使われるようになった理由は、尊王攘夷の志士たちが「天皇陛下の僕」と言う意味で使い出したのが現代に至る・・・という状況のようです。
どちらかと言えば、女性に対して「あなたのしもべですよ」なんて事が使われ出した最初だと面白いのですけどね。
時々話題になる「君が代」の「君」は天皇陛下だと教わっていますが、もともとは「あなた」という広義の意味で使っていあ歌のようですから、今も昔も変わらない男女の関係なんて意味があってもいいですよね。

お正月なので、初夢とか、将来の夢とか、「夢」という言葉を良く使うので、夢について。

簡単に「夢」を調べてみると、明治時代に英語の「dream」を訳す言葉として、「夢」が用いられ、将来の願望などの意味が加えられたと出てきます。
と言う事は、日本には、将来の願望などを指す言葉がなかったってこと?

「夢」と言う字は、草冠に、横になっていますが「目」、その下にワ冠があって、「夕」という構成です。
草冠だと思っている部分。ここを草冠として、夜に草むらで何かを見ようとしても見えないと言った解説をしている文献も見受けられます。が、ここは「つの冠」で、羊の角の部分です。そして目は、文字通り「目」を表しています。ワ冠は「覆う」「覆われたもの」などの意味です。「夕」も文字通り、「夜」や「暗闇」です。ということから、夕闇ではっきりと良く見えない様子を表しています。

他に、羊の部分が「ベツ」という逆さまつげで良く見えないと言った解説もありま
した。どちらにしても、良くは見えない状態を表しているようです。

そんな事から、はっきりしない状態を表すようになり、明治時代に「dream」という言葉が入って来た時に、はっきりしない将来、実現を待ち望むといった意味を含む言葉となりました。

大切

「たいせつ」は、大きく切ると書いてます。自分にとって、或いは相手にとって重要なものなのに、大きく切るってどういう事? 「大きく切る」と言うからには、ぶった切るみたいなイメージがありますから、調べてみました。

「大切」は、「大いに迫る、切迫する」と言う意味。ぶった切るなんて意味はサラサラなく、「急を要する」と言う事ですから、ここから、「重要な」と言う意味に転じます。

また「切」という字には、「モノを切る」以外に、「心をこめてするさま。ねんごろ。身にしみて強く感じるさま。さしせまった事情にあるさま。非常に厳しいさま」などの意味があります。「切に願う」なんて言い方しますしね。

そんなことから、「重要な願い」や「重要な思い」といった意味を含む「大切」という、現在使っている意味になったようです。

元旦と元日

初日の出

新しい年が始まりました! 2014年。すぐにソチオリンピック!楽しみです

さて、元旦。「元」は、「始まり」や「始め」の意味で、「旦」は地平線から太陽が昇る様子を現した漢字。と言う事で、「元旦」は、一年の最初の日の出や朝の意味です。
そうなると、元日は、一年の最初の日と言う事になりす。
ただ、最近では元旦と元日の区別ってあんまり無くなってきました。
英語だと、元旦も元日も「New Year’s Day」に変換されますしね(*^_^*)

「一年の計は元旦にあり」と言いますから、今年一年の事をしっかりイメージしようと思います!

大晦日

今日は大晦日。

「おおみそか」を漢字で書けと言われると、・・・・書けない。変換させると、この字だと分かる程度の漢字。簡単な字なんですけどね。

「おおみそか」は、「大きい晦日(みそか)」で、晦日は、三十日のこと。月の最後の日をさす言葉で、年の終わりの最後の日なので「大」と言う字を当ててるんでしょう。

「晦」という字は、月のでない暗い夜を意味しています。現在は太陽暦を使っていますが、太陰暦を使っていた頃は、月末は月の出ていない日になります。このことから転じて、「有り得ない事」といった意味もあります。月末に月が出ているなんて有り得ないってことですね。

「晦日」と書いて「つごもり」とも読みますが、これは「月籠り(つきこもり)」からで、月が籠って出ていない状態を言います。

奇数と偶数

数字は、2で割り切れない数字が奇数で、2で割る事の出来る数字を偶数と呼びます。なぜ、こんな呼び方というか、こんな字を当てているんでしょうね?
ギリシャの哲学者フィロラオスが、数字には、oddとevenがあり、第三の要素としてeven-oddが生じると言ったらしい。

oddには、「変な、風変わりな、妙な、変で、妙で、(二つひと組の)片方の、(一定数の組の)はんぱな、残りの、余分の」と言った意味があります。

evenには、「・・・でさえ(も)、・・・すら」以外に「均一な」と言う意味があります。

二つに分けた時に、偶数は2と2、3と3、4と4のように均一に分けられますが、奇数はどちらかに偏ります。1と2、2と3、3と4のように。
試合でお互いの点数が同じになるとイーブンになったと言います。イーブンの意味は分かりやすいですが、oddは、このevenありきの言葉なんでしょうかね?

感謝

感謝と言う字を見ていて、ふとクエッション。「感じる」と言う字と「謝る」という字で、「ありがとう」を現している。
調べてみると、不思議に思っている人が結構多い。

申し訳ないない、ごめんなさいと感じることが感謝?
かなり逆説的な字の当て方。
「謝謝」と、謝るという言葉を二度重ねることで強調しているのは、中国語のありがとう。
どうしたって、日本語の漢字は中国からのものだから、不思議な事ではない。

諸説あるけれど、あまりピンときた説明はない。通説も特に無いようだし。
教訓的な意味合いが強いんでしょうね。
意図的ではないにせよ、相手に対して申し訳ないことをしてしまい、謝って謝って許してもらえた時は、相手の人に感謝しますしね。
少し前に「流石」の記事で、「流」れる「石」と書いて「さすが」と読むようになった話のように、なるほど!と思わせるような話が出てくると面白いな・・・。

波瀾

ニュースを聞いていて、「波瀾」という言葉が妙にひっかかりました。

「波瀾に満ちた人生」とか、「波瀾万丈の人生を歩んだ」とか。
「ハラン」は、「波乱」かと思って、波が乱れるから、変化が激しい様子を言うのかと思ったけど、「波瀾」が正しい。辞書によっては、「波乱」とも書くと書かれているけれど、これだと意味が少し違ってしまう。

「波」は小さな波。「瀾」は大きな波を意味する。波が乱れるのも同じような意味になるかもしれないけど、「波瀾」と書くという事は、本来は、小さな波もあれば、大きな波もあるという意味でしょう。この二文字で、大きく物事が変化する様子を表します。「波乱」だと、どの程度の乱れなのか、「波瀾」より具体的ではありません。

「波瀾」に四文字熟語となる「万丈」とつけると、さらに激しさが増します。「丈」は長さの単位で、「万」をつける事により、一丈の万倍の意味となります。
小さな波と大きな波の差がとても大きいことを表すことになります。

「波乱」に「万丈」をつけると、波の乱れがかなり大きい事になりますが、「万丈」だけで波の大きさを表すのに比べて、「波瀾万丈」は、もともと波の大きさのある「波瀾」に万丈をつけることで、大きさを更に大きくするという役割を果たしていると思われます。

普段、何気なく、大きな違いも考えずに使っている漢字ですが、ちょっと調べるとその違いが面白いものです。